- 著者
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金 光男
- 出版者
- 地学団体研究会
- 雑誌
- 地球科學 (ISSN:03666611)
- 巻号頁・発行日
- vol.60, no.4, pp.287-300, 2006-07-25
- 被引用文献数
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5
"御雇い外国人"Curt Adolph Netto(ネットー:ドイツ1847-1909)は,1873(明治6)-1877(明治10)年秋田県小坂鉱山において鉱山兼製鉱師として手腕を振るったのち,1877年10月東京大学の設立とともに理学部地質および採鉱冶金科採鉱冶金学教室に勤務し,その間多くの門下生を育成した日本鉱山学の恩人である.筆者は歴史資料の分析により,岩倉派遣団に同行し1873(明治6)年の春訪独した大島高任(1826-1901)がネットーとドイツのフライベルクにおいて契約し,小坂鉱山再興のためマンスフェルト式溶鉱炉を備えるドイツ式の製錬施設を購入したものと推定した.ネットーは1873(明治6)年11月来日する.ネットーの小坂鉱山への道のりについては,横浜を出港したのち箱館〜能代〜米代川を遡る海路によるルートが,吾妻(1974)により想定されていたが,筆者は滞日中彼が作製した幾枚かのスケッチを検討することによりネットーは1873(明治6)年11月横浜を出港し,同年11月7日に三陸海岸釜石湾に入港,大島がかつて開発した釜石鉱山(橋野鐵山)から東北に上陸,遠野街道〜奥州街道〜盛岡を経由し,同年12月17日柳沢分レを通過.津軽街道を経て陸路小坂鉱山に向かったことを明らかにした.ネットーの一枚のスケッチ「Japanische Kuste Dat. Dec. 7.73」は,太平洋上にある船上から釜石湾を眺望したものであり,それには蛇紋岩からなる早池峰山,ペルム系ホルンフェルスからなる片羽山,白亜系花崗岩からなる五葉山などの北上山系の高峰はもちろん,遠く奥羽脊梁山脈を構成する第四系火山秋田駒ヶ岳,焼石岳,栗駒山などの高山群までが描かれていることが明らかとされた.ネットーを乗せた船が入港するとき,釜石湾は年に一度あるかないかの好天により彼を出迎えたことが復元される.ネットーのスケッチを含む鉱山資料は,写真記録のほとんどなかった明治初期における貴重な科学史資料である.国内に残されるこれらの古い鉱山資料は,今後組織的に整理保管され専門家により再調査される必要がある.