- 著者
-
橋本 裕之
- 出版者
- 日本文化人類学会
- 雑誌
- 民族學研究 (ISSN:24240508)
- 巻号頁・発行日
- vol.62, no.4, pp.537-562, 1998 (Released:2018-03-27)
近年, 人文科学および社会科学の諸領域において文化の政治性や歴史性に対する関心が急速に高まった結果として, 博物館についても展示を巨大な言説の空間に見立てた上でテクストとしての展示, もしくは表象としての展示に埋めこまれたイデオロギー的な意味を解読した成果が数多く見られる。だが, 展示をとりあげることによって表象の政治学を展開する試みは, 理論的にも実践的にも限界を内在しているように思われる。そこで決定的に欠落している要素は, 来館者が構築する意味に対する視座であろう。展示がどう読めるものであったとしても, 来館者が展示された物をどう解釈しているのかという問題は, 必ずしも十分に検討されていないといわざるを得ないのである。本稿は以上の視座に依拠しながら, 博物館において現実に生起している出来事, つまり来館者のパフォーマンスを視野に収めることによって, 博物館における物を介したコミュニケーションの構造について検討するものであり, 同時に展示のエスノグラフィーのための諸前提を提出しておきたい。実際は欧米で急成長しているミュージアム・スタディーズの成果を批判的に継承しつつも, 私が国立歴史民俗博物館に勤務している間に知ることができた内外の若干のデータを演劇のメタファーによって理解するという方法を採用する。じじつ博物館は演劇における屈折したコミュニケーションにきわめて近似した構造を持っており, そもそも物を介したインターラクティヴ・ミスコミュニケーションに根ざした物質文化の劇場として存在しているということができる。こうした事態を理解することは民族学・文化人類学における博物館の場所を再考するためにも有益であると思われる。